育む環境の言葉03 〜出来ない事の価値〜
●【出来ない事の価値】
「みんなが…」と言う言葉。
私たちはこの言葉を少々、疑ってかかっています。
みんなが…出来る事に、そう大した価値はないように思えてなりません。
むしろ、出来ない時間が長ければ長いほど、出来た瞬間、達成した瞬間…の価値が計り知れないほどの価値として広がっていくと考えています。
そういう意味で私たちの設計するモノには、いわゆる階段は設けていません。
ある園から教わった育む環境を生み出すための極意でもあります。
階段を設けてしまうと「みんなが」出来てしまう。。。
出来ない事で…出来るための手法を自分自身で見つけ出そうと試行錯誤を繰り返しながら、悶々と過ごす…この時間にこそ価値があるのではないでしょうか?
それでも尚、今の日本では「みんなが…誰も彼もが…出来る」ことを良しとしたがります。「みんなが…」と言う言葉に魔法があるかのごとく、何でも「みんなが出来る…」を好み、またそれをつくりたがります。
今日的な「平等」の思想がここにあると言うべきなのか?
「平等」と「自由」
「等しく得られる機会•経験を内包した環境」であるべきではあります。が、同時に
「機会や経験を獲得することが出来るのは本人以外の誰でもない環境」であるべき
だと考えています。
環境を自分自身で克服し、自分の頭と身体の動きのイメージが重なる様になった時に初めて「自由」は得られるものであり、葛藤しながら自分自身のイメージに折り合いをつけられるようになるまでに「費やした時間」にこそ価値があると考えています。
「その時間を大人が盗ってはならない!」
「時間泥棒にはならないでください!」
と声を大にして言い続けていきたいと考えています。